昭和41年07月19日 朝の御理解
人間は、神経八合といったようなことを申しますね。神経が。先日、私今、ルームクーラーを使わして頂いておるんですけども、朝、久保山先生が見えてから、外側よりもかえってあついわけです。ほいで私が、あのすぐ窓を開けられて、すぐまあ窓を開けるならあんた折角、ひやっとしとった、抜けてしまうがっち私が言うた。先生、外よりかここがぬくかですばい。ルームクーラーを使うとるとにどうしてじゃろうか。
したら、間違うとですたい。はあ、私ぬくか空気の入ってくるごとしとった。人間って神経ですよね。それを、ルームクーラーを使っておるから、まあ今に涼しゅうなるじゃろうと思うとるもんじゃから、もうそのままちゃんと熟睡のおかげを頂いてから朝まで覚えんなおる、神経ですよ。秋永先生のとこの、あのおばあちゃんがまだ入院しておられますが、今はもうないんですけど、以前はもう非常に痛むんですね。
ですから、非常に強い、その注射をしてもらうと、いわゆるこの、休めたり、または痛みが止まったりするそうです。ほいでもうそれを、痛み止めをしゃっちしてくれと言われるんです。それでその、まあ先生がなさるんですけど、それは、やはり気休めの注射であるんですね。もうそんなにひどい注射いつもしたら体壊すんです。ですから気休めの言うならもう毒にもならん薬にもならんというごたる注射をしてやられるそうです。そうするとですね、しばらくやっぱり痛みが止まるそうです。
それだけでも、人間の神経というものが、まあほんとに、悪く使えば困ったもんですけれども、良く使えば痛いのが痛くなかったり、ね、熱いはずのものが熱くなかったりするような、まあそのことにまでなるのです。まあそういうようなところも私共も、まあいろいろ信心の上でわからして頂かなければなりませんが、おかげは和賀心とか、ね、おかげは神様からでると思うな、氏子の心からぞとこう、四神様からもそこんとこを端的に教えておられます。ね。
本気で私共が改まらして頂こうと、教えに基づいた生活をさせて頂こうと。一生懸命に修行し一生懸命お参りをしよる。しんけいからでもおかげ頂くと。自分は必ず幸せになれると。そういうやはり神経が働くんですね。ですから初めの間はやはりおかげは神経八合。けれどもどんなにそのこれは無神経でありましてもです、神経は使う使わないは別としてです、やはり神様のおかげと言わなければおられんというおかげ。
私は思うのに、だから、普通では神経八合と言うけれどもですね、やはり、神経が2合、神様のおかげが8合と、まあせめてこのぐらいのところまで分からして頂くようになったらお徳が受けられると思いますね。普通では神経八合、けれども、だんだん言わばそういうような、事だと言ってもいうなら、その、もう例えばそういうことでは、ああ、その、だまされないということになってくるわけですね。
だんだん分かってくるんです。先生が気休めに薬を射ちござるじゃろうといったようなことが分かってくるようになりますと、もうきかなくなりますね。私どもが例えば信心八合の信心をさせて頂きよりましても、なんとはなしにお参りせんと気持ちが悪か。これはもう神経八合で信心しよるとです。けれどもそこにですそのお参りさせて頂かなければおられないという内容、修行させて頂かなければおられないという内容。
本気で改まらせて頂かなければと言う内容が出来てまいります時にです、もうそこには、神経八合ではない、いよいよ我が身は神徳の中に生かされてあるというおかげを受けられるのです。これはもう神経じゃない、我が身は神徳の中に生かされてあるという信心。どうでもひとつ、おかげを頂きまして、皆さんの場合でも、まあ神経八合。例えばそれが本当でありましてもですね。
もうほんとのこう注射をしてもらいよったっちゃです、今度はもう先生方あげんだましなさったけんでもう、今度はこの注射もこうあっそのしらもんじゃろと思うたら、ほんとは、注射してもらってもきかんごとなりますよ神経ですからね。ああ先生がああ言うて頂いたからと安心するね。ところがだんだん今度は、それをですね、頂く方の側が高しゃになってまいりますとです、もう私どもが、言うてもそれがさほどにきかん事なる。ああ、おかげ頂いたという心が少なくなる。
どうでもやはり、お徳を受ける信心をさしてもろうてですね、先生が生神様の様な方じゃからというのではなくてです、自分自身の心が生神様のごとならなければですね、おかげは受けられん。自分自身の心が生神様のごとなるから、例えば御結界の先生がここに座っておる先生が、わら人形の様な人であっても馬鹿のような人であっても、その人が神様と拝めれるようになるのです。いかに私は神経八合という、まあ普通では申します。確かにそうでありますけれどもね、まあ神経は二合ぐらいになった。
神様のおかげが、八合と分からして頂くところの、信心さして頂かなきゃならん。そこの頂けれるところを、受けていかなければならん。それを、私はお徳を受けていく信心だというふうに思うのです。お徳を受けなければ、徳の船に乗っていかなければ、この世は幸せはないと、石橋先生は言うておられますが、そこには、あの神経、もう無神経状態。自分の心の中に、神がござるという信心。自分自身が、自分で自分の心を拝みたいという信心。ような信心。そこにほんとの意味での、信心の精進があることを、お互い知らなければならんと思うですね。
どうぞ。